1950-04-01 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第16号
○吉田証人 入ソ当時のオボールの前半は最もひどかつたのでありますが、後半は、反動に対しての糧秣はさほどではありませんでした。いわゆるコムソモリスク、ソビエト・ガワ二一、エバラン、そういうところに入つてからは、そういう反動に対しての差別待遇は特に強かつたと思います。
○吉田証人 入ソ当時のオボールの前半は最もひどかつたのでありますが、後半は、反動に対しての糧秣はさほどではありませんでした。いわゆるコムソモリスク、ソビエト・ガワ二一、エバラン、そういうところに入つてからは、そういう反動に対しての差別待遇は特に強かつたと思います。
○小松委員 そうすると、四十年ごろというと、オボールの待遇が一番あなた方に対して惨酷な取扱いをしたというように解釈してよろしいわけですか。
○吉田証人 きのう申し上げたように、ハバロフスクの南の本線、極東鉄道から六十キロ密林の中に入つたハバロフスク州のオボール、それからコムツモール、それからエバラン地区へ入つてムーリー、それからソビエト・ガワ二一港(ポートガワニ)それからホルモルという地区のエバランという収容所、それからゴーリーという收容所、それからハバロフスク、大体それが歩いた大きい収容所の名前です。
○吉田証人 九月十八日牡丹江掖河出発、綏芬河経由、九月二十日ハバロフスク三十オボール十七地区六分所到着、一九四六年七月八日オボール派遣隊ドルミン收容所、一九四七年六月二十二日コムソモリスク十八地区十一分所、一九四七年十月二十八日コムソモリスク十八地区三分所、一九四八年一月二十日コムゾモリスク十八地区五分所、一九四八年二月三日コムソモリスク十八地区三分所、一九四八年二月二十八日コムソモリスク十八地区二分所
○吉田証人 入ソ前は満州の百二十二師団二百六十六連隊、赤鹿兵団におりまして、中隊長をやり、一九四五年九月二十二日ハバロスグの南方約六十キロオボールというところに入所いたしました。